頭蓋骨から恥骨へ向けて

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馬鹿なブログ記事を書く人は弱い

先日の記事「自殺する人は弱い」が炎上した件について - grshbの日記

はい。炎上してましたね。

この期に及んでまだやるかと自分でも思うけど、こういう誤読は多く見られた。「運もあるけどそれだけじゃない」ってのが僕の主張。だから何と言われれば答えに窮する。

この期に及んで記事書くのかと自分でも思うけど、こういう誤読しかこの記事には無かった。『「運もあるけどそれだけじゃない」という主張を補強するための、元記事内で提示される「それだけじゃなさ」の例がことごとく「いや、全然それは運の範疇に含まれてるよこの馬鹿」』っていうのが僕の主張であった。だから何?と言われれば、それは2つある。

  1. そもそもの問題として「自立した大人としてやってきたい」ぐらいの内容の記事を全く関係無い「弱者」「自殺した人」を持ち出して語ることにより、論点ボケるは不要に炎上するわうっかり読んじゃって不快になる人もいるわで何もいい事が無いのでやめとけ。「あんま他人に頼らない系の、でも頼ったりしなきゃいけない時はちゃっかり頼ったりしちゃう系の、しっかりした系人間としてやってきたいです☆」くらいの無意味な内容を社会的関心が高い「弱者」「自殺者」を持ち出して語るな。全然無関係に立論可能だろうが。アタマ使えよコアラ。
  2. 別にもうコアラに分かってもらうつもりは無いのでそこでユーカリ齧っとけばいいが、それ以外のこの件についてまともだけど流動的な意見を持つ誰かに対して、僕の主張をもう少し述べておく。そもそも○○のようなアクシデントが回避できたか?みたいな問題について、まともで生存能力の高い人達は「一概に」判断したりしない。もっと具体的に言うと、「(常識的な意味での)自由意志によって回避できた自殺」と「自由意思では回避できなかった自殺」がある、という判断をする。そして、往々にして「どちらの自殺だったのか」は、自殺に至る状況と自殺に至った個人とのマッチングによって決定され、マッチングは運や確率によってしか説明できないことに気づく。ここでもうお分かりだろうが、人間は「個人として強く生きよう」みたいな精神論や矜持によってその生存率を上げた訳ではない。人は、生まれてくる人間の素性について、選べない。選択肢を選択する主体をその主体は選べないのだ。だから、人間は環境側を変更することを選んだ。ようは、どのような主体(≒「自分がそうであったかもしれない/これからそうなりうるかもしれない可能性の全て」)であったとしてもなるべく「死への選択肢」が現れないような社会を構築することを選んだのである。というか無敵の淘汰説を使うならば、そういった所属する個人の強弱にロバストな設計思想を持つ社会がそうでない社会に勝利し、残ったのだ。つまり(結論なのでここだけ読んで理解してもいい)、「自分の強度を高めることで生き残ろう」という生存戦略は「弱い人も強い人も個人の強度に無関係に生き残ろう」という生存戦略に歴史的にすでに敗北しているのだ。「強くありたい」と願うのならば、自分が強かろうが弱かろうが生き残れるような言説に加担すべきであって、勿論、回避可能か不可能かもはや判別できないアクシデントを「気に食わねえから全部回避可能だと思う事にする」などという言説に加担してはならない。