頭蓋骨から恥骨へ向けて

写真を撮ったこと、考えたことの記録

文系の大学が必要なのか問題

文系学部って必要なの?
増田さん、今日も、お元気ですね。



今日は妻(文系大学出身)に
「自分の学科も役に立っているとは言えないかもね」
「実際には、必要な気がするんだけど、どうなの?」
と訊かれたので僕の思うところを書いてみようと思う。


大学の役割

およそ下記2点に集約されるのではないかと思う。

1)知的娯楽施設としての場

謎を解くと楽しい。
何か物語に触れると感動する。
ちまたには公園やら体育館やら肉体を行使して遊ぶ施設がある。
それと同じで学問自体が楽しいので国民の福利厚生としてだけでも意味がある。
おおよそ大学は試験で選抜した学生以外にも聴講生を受け入れたりしている。

2)知的リソース生産としての場

研究を行い新たな知見を得る、そしてそれを優秀な人間と共有する。
自国内の知的リソース(高度な教育を受けた人材)を増やすことができる。


文系の学問の必要性

3点、考えてみた。

1)娯楽施設としてのコストパフォーマンス

基本的に必要なインフラ以外に、その学問に特有のコストが少ない。
ようは、ほとんどの文系科目では実験しないので箱、人、書物を調達するだけで良い。
娯楽施設として考えると理系大学よりもコスト面で優位である。

2)学問分野としての必要性

これを不要と言い切る人は少ないだろうけど一応説明。
理系学問では何をするものかざっくり言うと、
「ある概念を科学にする」ということに尽きる。
科学の利点は(科学のコードさえ知っていれば)、
ある言説の正しさを誰でも<厳密に>検証・共有できるところにある。
科学化された概念はその厳密さと共有可能性の高さから物事に白黒付けるのに非常に役に立つ。
薬が効くのか、どうすれば事故を減らせるのか、強度を保つに必要なサイズは、など。
これが一般に言われる理系学問が「役に立つ」と言われる意味であろうと思う。
それに対して文系が扱う知のほとんどは科学化を必要としていない。
分野によっては一部を科学化することで恩恵を受けるのでそうしているところもある。
じゃ、文系とは何なのかを簡単に言うと「記述可能な知的活動の全て」と言っていい。
何か知る、発見する、そして「記述する」。文系学問とは「記述可能な知識体系そのもの」であった。
「理系」は文系学問の中で科学化できるもの、と言い換えてもいい。
ただ、現在の「文系」は科学化できない/しては意味が無くなる学問分野をいわれることが多い。
ここで話を簡単にするために「科学化できないものは役に立たないのか」と言うことにしよう。
もちろん、そんなことは無い。
わかりやすいのは「価値判断」の分野である。
科学化は、たとえば、ある物質の人体への作用を明確にする。
しかし、大麻の摂取が「良き事なのか/悪しき事なのか」は、
文化的/歴史的に判断されることが大半であって科学の範疇に収まることはない。
同様に国のデザインをどうするかが問われるとき、生き方を問うとき、
文化や歴史が参照されるのであって、文系の学問が必要であると言える。

3)無用の用仮説

さきほどの項目の中で理系学問は元々文系学問に含まれていると書いた。
理系学問はその血を哲学から引いている。
哲学が生きる上で役に立つかと言われれば、役に立つ人もいる、程度だろう。
しかし哲学は論理学、数学、科学を生んだ。
「役に立たないと思われていたものが役に立つものを生む」ことはよくあることなのだ。
逆に言うとある地域/ある時代という限定された時空の中で「役に立つ/立たない」を
判断してしまうことによって将来的に役に立つものが生まれなくなってしまうことがある。
一見、道楽に見える文系分野や理系分野の基礎研究も潰されるべきでは無いのである。

人は皆有用の用を知るも、無用の用を知る莫きなり
荘子

おまけ:教育論のやっかいさ

さて、僕がここに書いたような事柄が、当然だけれど専門家によって、もっと深く議論/研究されている。
知見としても相当なものが蓄積されており、素人が口を出す場合もある程度は参照されるべきであろう。
しかし、何故だか元増田の大学不要論にはそういった後が全くみられない。
プロ野球の試合を見ながら「俺の方がうまく打てる」と息巻くおっさんレベルである。
政治や教育は誰でも一度は参加する問題だけに、あまり深く考えない放言をする輩が多くて大変だなーと思うしだい。

元増田に特に反論という訳でもないんだけれど、少なくとも大学の増加によってコストは増えるかもしれないが、
大抵のものは「量が質を生む」「裾野の広さが高さを生む」法則があるので、
質の高い教育を維持するなら、分野や質の多様性はある程度確保されるべきなのでは、と直感的に感じたことであった。



おしまい