頭蓋骨から恥骨へ向けて

写真を撮ったこと、考えたことの記録

一部が全体を代表する、あるいは、僕は君が好きだ

品質保証職という日本が誇る()の、製造業の一端を担う仕事をやっていたことがあるのだが、品質の管理とは何かというと、ようはモノ/コトはバラツク、ということをどのようにコミコミにしてモノを作って売るかを考えることであった。さて、そういった仕事でまず考えるべき、クリティカルなことは何か?それは「そのモノを代表する性能とは何か?」ということだ。金槌ならば釘をうてることが重要なわけであるが「釘をうつという性能」を代表するのは一体なんなのか。頭の金属の材質なのか、柄の部分の強度なのか。はたまた二つの結合部分の癒着力なのか。もっと実務的に柄の指定部分を回転する軸に固定し、指定の高さから釘めがけて頭を離した結果釘が埋没した深さなのか。評価軸はたくさんある。思索の果てに、結果的に、我々は「金槌とはそもそも一体なんなのか」という合意を客と結ぶ必要があるという結論に至る。それが(売り物になる)金槌と呼ばれるモノに求められる性能を規定し、その性能がどれほどバラツクことが許されるのかを決定する。






ここで単純なモデルとして鉄鎖を考える。たいていの場合、鎖の性能は抽象的には「切れにくさ」を求められることが多い。安くて、持ち運びやすくて、というオプションはあるかもしれない。しかし、それは「最も重要な性能」にはならない。縛る、吊るす、つなぐ。切れてはダメだ。鎖は切れてはダメなんだ。「切れにくさ」を保証する必要がある。鎖の強度を保証するにはどうしたら良いのだろう。これは簡単だ。「一番弱い鉄の輪」の強度が分かればよい。鎖は必ずそこから切れる。最も弱い鉄の輪が、規定の強度をクリアしているかどうか。「その鎖を代表するのは、最も弱い鉄の輪」である。だから、我々はそのありかを知ろうとする。






もう一つのモデルが醤油せんべいである。醤油せんべいの性能は何か。味である。強度ではない。鎖とは違う。何が違うのか?醤油せんべいは、たとえば、醤油せんべいの面内でもっとも醤油が薄い部分が、その性能を代表することにはならない。だいたい常識的には「一枚食べてみて、適度な塩分を感じるか」が性能の指標である。醤油せんべいは一部が全体を代表しない。醤油せんべいは「一部一部の平均が全体を代表」する。我々は煎餅を幾度かかじり、全ての煎餅を知ろうとする。





ここで、君が好きだ、ということを考える。
「僕が君を好きだ」ということの合意は、君と僕の間でどのようになされるのか。
君は納得したいに違いない。


「君は、私の何をもって私が好きだといっているのだろう」


君を代表しているものを君は知りたい。





さて、何よりも重要なのは、我々は全体を知ることはできないという前提である。僕が君を好きだというとき、「君そのもの」をなんて好きにはなれない。「君の全てが好きだ」というのは「明らかに」言い回しの問題であり、比喩の問題であり、詩の領域の話である。



君の全てを、僕が、君自身が、知ることは、永遠に、無い。



けれども、僕は「明らかに」言い回しの問題なんかじゃなく、比喩でもなく、現実的に君の全てが好きだと言える。君はたとえば時にそれを了解する。全体のたった一部、ある部分しか知ることしかできない我々は、ときに全てをやりとりする。ここで「君を代表するモノ」について思いが及ぶ。全てを知ることができない我々は、しかし、あるとき、君を代表するモノについて合意に至ったことがあるに違いない。僕たちがやりとりしたものは、実はそれだったというわけだ。「それ」とは一体、果たしてなんだったのか。




町を歩く、美しいものがある。それを写真に撮る。個展をひらく。その写真は、では、美しいのか。町を歩く、美しいものがある。それを写真に撮る。誰かが「美しいもの」という感想を抱く。写真ではなく、「元の美しいものそのもの」を展示したとして、それは町の連なりからは切り離される。美しいものがある町の「美しいものそのもの」の前に人を立たせても、町の無数の文脈はそれらをいとも簡単に覆い尽くす。





そう、重要なことは、一部が全体を代表するということだ。
我々にはそうするしか手は残されていないという事実だ。





「連続体の切断面は連続体の全体を予告する」とステートメントが書かれた個展にいった。なるほど。あなたの描いた切断面が、正しく、あるいは美しく間違って、全ての閲覧者と合意に至っていますように。