正義を用いた刺し心地
仕事がうまくいかず、うげえ、となっている。
それ、ヤバくね?という事態は起こる。
これはもう必ず起こる。
そういったヤバさに対してのスタンスの取り方がちょっと、大変なのであった。
ヤバくないよね。大丈夫大丈夫。
という認識のまま進めたい人々というのがおり、
いやいや、でもそのままの認識だと進まない話がいくつかあるということで、
微妙な文言で微妙な伝え方で報告をしたところ、
あらら、やっぱりヤバいものはみたくなかったのですか、みたいな。
それで、自分はイライラしているのだが、怒っておるのだが、
まあ、ヤバいものは見たくねえよ、という人の心の力学も普通のこと、
として理解できているのであり、じゃ、どっちが大事なん?
みたいな事態に対して、僕は別にどうでもいいじゃん、というスタンスでいい。
と、僕の冷静なところは言っており、合理的な人生の生き方としては、
じぇんじぇん間違ってなーい、と思う。
思うのだが、一方、このままじゃいかんよな、とも思う。
長期的に仕事をする上で、健全では無いことに関わり続けるのは、
無理であることよな、心が持たんよなと囁く俺がおり、
いやいや、だからといって、正々堂々真っ向勝負?死ぬよ君、
と、冷静な僕がおり、ま、大人なので折り合いつけていくしか無いんでしょうね。
と、もう一人の僕がおる。おるのだが。
多分、そういう収束のさせ方が一番気に入らないのが僕なのだろう。
本当は襟首引っ掴んでヤバいものに向き合わせたい。
別に、それで全部駄目になったって良い、とか。
いやいやいやいや、でもそれは正義過ぎるよな、とか。
そういう宗教的な熱心な正義は、まあ、正しい人殺しのすることよな、とか。
ま、犬たんぽ抱いて寝る。