頭蓋骨から恥骨へ向けて

写真を撮ったこと、考えたことの記録

風で飛ばされる帽子を命がけで掴み取るということ

風立ちぬをみた。
映画館で冒頭からずっと泣いていた。
耳をすませば」で自分には訪れなかった、甘い青春時代を思い、
ああ、こんな青春には自分には無かったんや!と絶望した人、いるよね。
「風立ちぬ」では、ああ、こんな人生自分には送れなかったんや!と軽く絶望する。
なんか、僕の涙の原因はそのあたりにある気がする。
いじめっこ3人組に立ち向かう主人公。
そこで、もう泣けるんだよね。
身体が貧弱で弱虫だった僕にはできない生き方がそこにある。





で、インターネットで風立ちぬ評をいくつか読んだのだけれど、
共感できるものがかなり少ないことに気づく。
いやー、戦争を描いていない、とか、どうでもいいでしょ。
風立ちぬ、そういう映画じゃないでしょ。って思った。




宮崎駿が書いた風立ちぬの企画書の一部抜粋が映画パンフレットに載っている。
企画書なので「どういう映画が作りたいか」がきちんと説明されている。
で、どんな映画を作りたいと思ったのか。
答えは「美しい映画」だ。ただし「美しさが持つ毒は隠さない」。
これが、宮崎駿が風立ちぬで描きたかったことだった。
結果、どうだったか、きちんと描けていたのか。
そりゃ、もう十分でした、泣けました、美しかったです、というのが僕の感想。




風で飛ばされる帽子のように、人の命が軽かった時代(結核の蔓延と戦争)。
そういう状況の中で人はどう生きたのか。
多くの人は風で飛ばされ、流されるままだった。
それは、まあ、普通のことだ。特に美しく無い。
しかし、一部の人間は、運命に翻弄される中で、
唯一自分に許されたことをやってのけた。




主人公とヒロインの出会いのシーン。
汽車の連結部で本を読む主人公の帽子が飛ばされる。
ヒロインはそれを身を挺して(汽車から落ちて死ぬかもしれないのに)掴み取る。
風を止めることはできない。帽子は流されてしまう。
だけど、命がけでそれを掴み取ることは許されている。
風立ちぬは、きちんと命がけで帽子を掴みとった人間の話なのだ。




帽子ごときに命をかけるなんて、馬鹿馬鹿しく思えるかもしれない。
長生きができる今の人たちはきっとそう思う。
だけど、明日には死んでしまうかもしれない人なら多分違うのだ。
前提が、まず違う。
明日死ぬかもしれないなら、今日成すべき事は成されてしまうべきなのだ。




だから、喀血したヒロイン思って涙を流しながらも設計は続けられる。
だから、ヒロインはサナトリウムを抜け出して主人公のもとへ向かう。
だから、主人公は病気のヒロインの隣で煙草を吸う。
だから、無理を押して初夜は訪れる。




そうした生き方は、美しいものである、と宮崎駿は描いた。
しかし、美しいものには毒がある、とも。
主人公が追い求めたもの、2つ。双方ともに、悲劇的な結末を迎える。
ヒロインは恐らく、主人公との結婚生活のせいで死期が早まった。
夢の結晶であるゼロ戦のせいで、たくさんの人間が死んでしまった。
美しさは存在の正しさを肯定しても、運命の結果の正しさを保証しない。
美しさを求めた結果、死屍累々の地獄を主人公は作り出してしまった。
そこで、映画は終わる。あとにも先にも、お話は、無い。