頭蓋骨から恥骨へ向けて

写真を撮ったこと、考えたことの記録

妻の生まれた町を歩く

知人の個展を見に東京に行った。



その日の夜は、妻が暮らした家に泊まり(今は妻の兄が一人で暮らしている)、
あくるひの午前中は犬の散歩をしながら、妻が育った町を歩いた。



僕はひさしぶりにちゃんとカメラで何かを撮る、みたいなことをした。



物音がしない住宅街で横で妻の解説を聞きながら歩く。
猫の死体を発見して、ひとりで埋葬をした雑木林。
いつも丁寧に手入れされた庭があって、いつかそんな風に住みたいと思っていた家。
バブルのころに高額で売り出されていた豪邸。
犬の散歩のとき糞尿をさせるために2段目まで上がっては引き返していた階段と坂。
なんでもない公共の工事で作られた小道。
でも、幼い妻にとっては「素敵な小道」だった小道。
横から妻の声が聞こえる。
暑いので犬が呼吸で体温調整をする音が聞こえる。
ぱちんぱちんとシャッターを切る。
いつか、どこかで、何度も聞いた場所。
夢でも幾度か見たような場所、が、全く違うものとして提示される。
こちらが、まぎれもない本物なんだ、という感慨。
郷愁の実物が、目の前にある。
そして、妻は、かつて、それの、一部だった。


一部が全体を代表する、あるいは、僕は君が好きだ

品質保証職という日本が誇る()の、製造業の一端を担う仕事をやっていたことがあるのだが、品質の管理とは何かというと、ようはモノ/コトはバラツク、ということをどのようにコミコミにしてモノを作って売るかを考えることであった。さて、そういった仕事でまず考えるべき、クリティカルなことは何か?それは「そのモノを代表する性能とは何か?」ということだ。金槌ならば釘をうてることが重要なわけであるが「釘をうつという性能」を代表するのは一体なんなのか。頭の金属の材質なのか、柄の部分の強度なのか。はたまた二つの結合部分の癒着力なのか。もっと実務的に柄の指定部分を回転する軸に固定し、指定の高さから釘めがけて頭を離した結果釘が埋没した深さなのか。評価軸はたくさんある。思索の果てに、結果的に、我々は「金槌とはそもそも一体なんなのか」という合意を客と結ぶ必要があるという結論に至る。それが(売り物になる)金槌と呼ばれるモノに求められる性能を規定し、その性能がどれほどバラツクことが許されるのかを決定する。






ここで単純なモデルとして鉄鎖を考える。たいていの場合、鎖の性能は抽象的には「切れにくさ」を求められることが多い。安くて、持ち運びやすくて、というオプションはあるかもしれない。しかし、それは「最も重要な性能」にはならない。縛る、吊るす、つなぐ。切れてはダメだ。鎖は切れてはダメなんだ。「切れにくさ」を保証する必要がある。鎖の強度を保証するにはどうしたら良いのだろう。これは簡単だ。「一番弱い鉄の輪」の強度が分かればよい。鎖は必ずそこから切れる。最も弱い鉄の輪が、規定の強度をクリアしているかどうか。「その鎖を代表するのは、最も弱い鉄の輪」である。だから、我々はそのありかを知ろうとする。






もう一つのモデルが醤油せんべいである。醤油せんべいの性能は何か。味である。強度ではない。鎖とは違う。何が違うのか?醤油せんべいは、たとえば、醤油せんべいの面内でもっとも醤油が薄い部分が、その性能を代表することにはならない。だいたい常識的には「一枚食べてみて、適度な塩分を感じるか」が性能の指標である。醤油せんべいは一部が全体を代表しない。醤油せんべいは「一部一部の平均が全体を代表」する。我々は煎餅を幾度かかじり、全ての煎餅を知ろうとする。





ここで、君が好きだ、ということを考える。
「僕が君を好きだ」ということの合意は、君と僕の間でどのようになされるのか。
君は納得したいに違いない。


「君は、私の何をもって私が好きだといっているのだろう」


君を代表しているものを君は知りたい。





さて、何よりも重要なのは、我々は全体を知ることはできないという前提である。僕が君を好きだというとき、「君そのもの」をなんて好きにはなれない。「君の全てが好きだ」というのは「明らかに」言い回しの問題であり、比喩の問題であり、詩の領域の話である。



君の全てを、僕が、君自身が、知ることは、永遠に、無い。



けれども、僕は「明らかに」言い回しの問題なんかじゃなく、比喩でもなく、現実的に君の全てが好きだと言える。君はたとえば時にそれを了解する。全体のたった一部、ある部分しか知ることしかできない我々は、ときに全てをやりとりする。ここで「君を代表するモノ」について思いが及ぶ。全てを知ることができない我々は、しかし、あるとき、君を代表するモノについて合意に至ったことがあるに違いない。僕たちがやりとりしたものは、実はそれだったというわけだ。「それ」とは一体、果たしてなんだったのか。




町を歩く、美しいものがある。それを写真に撮る。個展をひらく。その写真は、では、美しいのか。町を歩く、美しいものがある。それを写真に撮る。誰かが「美しいもの」という感想を抱く。写真ではなく、「元の美しいものそのもの」を展示したとして、それは町の連なりからは切り離される。美しいものがある町の「美しいものそのもの」の前に人を立たせても、町の無数の文脈はそれらをいとも簡単に覆い尽くす。





そう、重要なことは、一部が全体を代表するということだ。
我々にはそうするしか手は残されていないという事実だ。





「連続体の切断面は連続体の全体を予告する」とステートメントが書かれた個展にいった。なるほど。あなたの描いた切断面が、正しく、あるいは美しく間違って、全ての閲覧者と合意に至っていますように。

ドワーフのスープ

The dwarven soup

ホビットの冒険を映画館で観た日のことだった。
か弱いホビットのおうちに傍若無人なドワーフたちがやってきて、
貯蓄しておいた食料をもりもり食べたシーンが僕の食欲を支配していた。
うちには、パンもチーズも無い。
丸かじりできるようなリンゴすら無かった。
冷蔵庫にはたくさんの根菜。
いいじゃないか、根菜。地下の野菜。ドワーフの野菜って感じだ。
そうして、僕はドワーフとなった。
僕は支配された食欲に、支配され、ドワーフとなって、
カイジルシ鋼製の包丁を手に取ったのだった。


材料(2ドワーフ前)

にんじん 1本
ごぼう 1本
マッシュルーム 1パック
たまねぎ 半分
ベーコン 1/4本(50〜80グラムくらい)
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調理(切断)

生粋のドワーフであるところの僕は、短冊切りの意味するところを知らない。
さいの目切りが何であるかの教育を受けていない。
ハンマーの叩き方は沢山知っている。
包丁の使い方は2つしか知らない。



(1)いちどだけ、ふりおろす

にんじん、ごぼう、これはお前のぶん、こっちは俺のぶん。
取りぶんを明確にするのが包丁の第一の目的である。
僕と愛する妻のぶんを明確にするのが目的である。
愛は迷わない。いちどだけ、ふりおろす。

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マッシュルームに金属はいらない。
手づかみで決める。
こっりは僕のぶん、そっちが君のぶん。
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(2)たくさん、ふりおろす

なんという切り方かをドワーフたちは考えたことがない。
たくさん振り下ろす。それだけ。
地下に出来る野菜たちの一部にはそうして細かくしてガスを抜かないと、
ドワーフたち悪酔いさせるものがあるのだ。
たまねぎもその一つで、だから、ドワーフはたくさん、ふりおろす。
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調理(焼成

ドワーフたちの精気を保つのは火であり、炎である。
炎の味のしない食べ物をドワーフは好まない。
また、火はたまねぎの毒素をまろやかな甘みに変える。
焼き目が大事だ。燃える前の木の色。炎を生む樹木の色。
薪色の焦げ目がつくまでベーコンを熱する。

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調理(加圧)

そうして、下ごしらえができた材料を鍋に入れて行く。
魔法処置が施されたビタクラフト銀製の鍋は短時間で野菜をごちそうに変える。
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材料をぶちこんだら、水をひたひたになるまで足す。
このあたり、だいぶ魔法が切れてくる。
俺は俺が岡山在住のただのおっさんであることに気がつきはじめる。
ので、コンソメスープを適量足して下さい。
ちょっと薄味かね?くらいの量。
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沸騰して圧力鍋が完全に加圧が開始されてから10分くらい弱火でコトコト煮込む。
10分経ったら、火を止めてさらに10分以上待つ。
適度に冷めたら、蓋を開けて、味見をする。
足りないようならコンソメか塩を足す。
味が整ったら、再度、蓋をして、加圧された状態で3分コトコト。



完成

で、完成。
あたたいうちに、盛りつける。
ひげはすっかりと抜け落ちて、背は伸びて、
ただの腹の空かせたおっさんがおたまを振る。
ドボゥ。
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できあがり。
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いただきます

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めでたしめでたし

僕はもう、悩んでさえいればいいのだ。

遅ればせながらfinalventさんの「考える生き方」を読んだ。
これまでの人生をどうやって歩いてきて、どこで躓いて、
よろけながらも前に進んできたのか。
そんなことが書いてある本だった。



ちなみに山形浩生はけちょんけちょんに書評していて、
実は僕も同じような感想を持ったのだった。自費出版の伝記みたいな本じゃん。確かに。
でも僕にはnot for me.じゃなかった。for meだった。



全然普遍的な内容じゃないように読める。
ただの個人の人生の歩み。誰が子供作ったとか、どうでもいいんじゃないの?
まあ、そうなんだ。
どこかの知らないおじさんが学歴で躓いて子供できて病気になったとか、どうでもいいじゃん。
でも、僕には分かる。分かったのだ。
誰かの思いっきり個別具体的な人生の苦楽から、普遍性が立ち上がる。
や、そういう話にする必要も無いか、ああ、これは良いセーブポイントだったなって思ったのだ。
お正月にじいちゃんが、夜に酔っぱらった親父が一瞬人生を振り返って言う。
「あんな、人生ってのはな、社会ってのはな・・・」
だいたい、応用が効か無くて信頼できないんだけれど、たまに思い出してハッとする。
そういう、おっさんがぽいっと置いといてくれるセーブポイント



日頃のブログ内容から察するにfinalventさんの勉強量は凄いし、
ただの知識が身体に馴染んで使えるようになるように実践もしている。
まあ、僕は正直、全然そんなのできないので参考にはならない。
で、参考にならないからこそ、得るものがあったよ。
人生の苦難に自分よりも能力の高いおじさんが挑んでみたものの、
挑んではいるものの、敗北続きだった。
自分のハゲに悩み、未だに病気が怖いんだって。
ああ、なら、それでもういいじゃん。
ハイデガー道元小林秀雄もカントもあれやこれも知っててもハゲに勝てないんじゃん。
ヨガしてジョグして水泳しても老いていくのは怖いんじゃん。


僕自身もマルファン症候群という超怖い病気を抱えており、
いつ血管ぷっちり切れて死ぬやも分からん。
しかも、finalvent家と違ってうちは子供に恵まれなかった。
託すべき希望の宛先とやらも、なんか無い感じなのだ。
ま、でも、いっか。と僕は思った。


いっぱい勉強して、努力して、考えてもハゲには負ける、病気は怖いらしい。
それは、今夜の晩ご飯、何にしようか?と、いう悩みが毎日訪れるくらい、
普通の、日常的な、そして誰にも克服なんてできやしない問題なんだってことだ。
個人の能力なんて、どうでもいい感じみたい。
ああ、じゃあ、僕もこれまで通り、これからもずっと病気や死や孤独に悩んでいればいいのだ。
悩んで考えていれば、なんか、それで生きてるって感じなんだろう。
なんだか、そんな納得というか、吹っ切れることができた本でありました。
面白かったです。



おしまい。

文系の大学が必要なのか問題

文系学部って必要なの?
増田さん、今日も、お元気ですね。



今日は妻(文系大学出身)に
「自分の学科も役に立っているとは言えないかもね」
「実際には、必要な気がするんだけど、どうなの?」
と訊かれたので僕の思うところを書いてみようと思う。


大学の役割

およそ下記2点に集約されるのではないかと思う。

1)知的娯楽施設としての場

謎を解くと楽しい。
何か物語に触れると感動する。
ちまたには公園やら体育館やら肉体を行使して遊ぶ施設がある。
それと同じで学問自体が楽しいので国民の福利厚生としてだけでも意味がある。
おおよそ大学は試験で選抜した学生以外にも聴講生を受け入れたりしている。

2)知的リソース生産としての場

研究を行い新たな知見を得る、そしてそれを優秀な人間と共有する。
自国内の知的リソース(高度な教育を受けた人材)を増やすことができる。


文系の学問の必要性

3点、考えてみた。

1)娯楽施設としてのコストパフォーマンス

基本的に必要なインフラ以外に、その学問に特有のコストが少ない。
ようは、ほとんどの文系科目では実験しないので箱、人、書物を調達するだけで良い。
娯楽施設として考えると理系大学よりもコスト面で優位である。

2)学問分野としての必要性

これを不要と言い切る人は少ないだろうけど一応説明。
理系学問では何をするものかざっくり言うと、
「ある概念を科学にする」ということに尽きる。
科学の利点は(科学のコードさえ知っていれば)、
ある言説の正しさを誰でも<厳密に>検証・共有できるところにある。
科学化された概念はその厳密さと共有可能性の高さから物事に白黒付けるのに非常に役に立つ。
薬が効くのか、どうすれば事故を減らせるのか、強度を保つに必要なサイズは、など。
これが一般に言われる理系学問が「役に立つ」と言われる意味であろうと思う。
それに対して文系が扱う知のほとんどは科学化を必要としていない。
分野によっては一部を科学化することで恩恵を受けるのでそうしているところもある。
じゃ、文系とは何なのかを簡単に言うと「記述可能な知的活動の全て」と言っていい。
何か知る、発見する、そして「記述する」。文系学問とは「記述可能な知識体系そのもの」であった。
「理系」は文系学問の中で科学化できるもの、と言い換えてもいい。
ただ、現在の「文系」は科学化できない/しては意味が無くなる学問分野をいわれることが多い。
ここで話を簡単にするために「科学化できないものは役に立たないのか」と言うことにしよう。
もちろん、そんなことは無い。
わかりやすいのは「価値判断」の分野である。
科学化は、たとえば、ある物質の人体への作用を明確にする。
しかし、大麻の摂取が「良き事なのか/悪しき事なのか」は、
文化的/歴史的に判断されることが大半であって科学の範疇に収まることはない。
同様に国のデザインをどうするかが問われるとき、生き方を問うとき、
文化や歴史が参照されるのであって、文系の学問が必要であると言える。

3)無用の用仮説

さきほどの項目の中で理系学問は元々文系学問に含まれていると書いた。
理系学問はその血を哲学から引いている。
哲学が生きる上で役に立つかと言われれば、役に立つ人もいる、程度だろう。
しかし哲学は論理学、数学、科学を生んだ。
「役に立たないと思われていたものが役に立つものを生む」ことはよくあることなのだ。
逆に言うとある地域/ある時代という限定された時空の中で「役に立つ/立たない」を
判断してしまうことによって将来的に役に立つものが生まれなくなってしまうことがある。
一見、道楽に見える文系分野や理系分野の基礎研究も潰されるべきでは無いのである。

人は皆有用の用を知るも、無用の用を知る莫きなり
荘子

おまけ:教育論のやっかいさ

さて、僕がここに書いたような事柄が、当然だけれど専門家によって、もっと深く議論/研究されている。
知見としても相当なものが蓄積されており、素人が口を出す場合もある程度は参照されるべきであろう。
しかし、何故だか元増田の大学不要論にはそういった後が全くみられない。
プロ野球の試合を見ながら「俺の方がうまく打てる」と息巻くおっさんレベルである。
政治や教育は誰でも一度は参加する問題だけに、あまり深く考えない放言をする輩が多くて大変だなーと思うしだい。

元増田に特に反論という訳でもないんだけれど、少なくとも大学の増加によってコストは増えるかもしれないが、
大抵のものは「量が質を生む」「裾野の広さが高さを生む」法則があるので、
質の高い教育を維持するなら、分野や質の多様性はある程度確保されるべきなのでは、と直感的に感じたことであった。



おしまい

馬鹿なブログ記事を書く人は弱い

先日の記事「自殺する人は弱い」が炎上した件について - grshbの日記

はい。炎上してましたね。

この期に及んでまだやるかと自分でも思うけど、こういう誤読は多く見られた。「運もあるけどそれだけじゃない」ってのが僕の主張。だから何と言われれば答えに窮する。

この期に及んで記事書くのかと自分でも思うけど、こういう誤読しかこの記事には無かった。『「運もあるけどそれだけじゃない」という主張を補強するための、元記事内で提示される「それだけじゃなさ」の例がことごとく「いや、全然それは運の範疇に含まれてるよこの馬鹿」』っていうのが僕の主張であった。だから何?と言われれば、それは2つある。

  1. そもそもの問題として「自立した大人としてやってきたい」ぐらいの内容の記事を全く関係無い「弱者」「自殺した人」を持ち出して語ることにより、論点ボケるは不要に炎上するわうっかり読んじゃって不快になる人もいるわで何もいい事が無いのでやめとけ。「あんま他人に頼らない系の、でも頼ったりしなきゃいけない時はちゃっかり頼ったりしちゃう系の、しっかりした系人間としてやってきたいです☆」くらいの無意味な内容を社会的関心が高い「弱者」「自殺者」を持ち出して語るな。全然無関係に立論可能だろうが。アタマ使えよコアラ。
  2. 別にもうコアラに分かってもらうつもりは無いのでそこでユーカリ齧っとけばいいが、それ以外のこの件についてまともだけど流動的な意見を持つ誰かに対して、僕の主張をもう少し述べておく。そもそも○○のようなアクシデントが回避できたか?みたいな問題について、まともで生存能力の高い人達は「一概に」判断したりしない。もっと具体的に言うと、「(常識的な意味での)自由意志によって回避できた自殺」と「自由意思では回避できなかった自殺」がある、という判断をする。そして、往々にして「どちらの自殺だったのか」は、自殺に至る状況と自殺に至った個人とのマッチングによって決定され、マッチングは運や確率によってしか説明できないことに気づく。ここでもうお分かりだろうが、人間は「個人として強く生きよう」みたいな精神論や矜持によってその生存率を上げた訳ではない。人は、生まれてくる人間の素性について、選べない。選択肢を選択する主体をその主体は選べないのだ。だから、人間は環境側を変更することを選んだ。ようは、どのような主体(≒「自分がそうであったかもしれない/これからそうなりうるかもしれない可能性の全て」)であったとしてもなるべく「死への選択肢」が現れないような社会を構築することを選んだのである。というか無敵の淘汰説を使うならば、そういった所属する個人の強弱にロバストな設計思想を持つ社会がそうでない社会に勝利し、残ったのだ。つまり(結論なのでここだけ読んで理解してもいい)、「自分の強度を高めることで生き残ろう」という生存戦略は「弱い人も強い人も個人の強度に無関係に生き残ろう」という生存戦略に歴史的にすでに敗北しているのだ。「強くありたい」と願うのならば、自分が強かろうが弱かろうが生き残れるような言説に加担すべきであって、勿論、回避可能か不可能かもはや判別できないアクシデントを「気に食わねえから全部回避可能だと思う事にする」などという言説に加担してはならない。

Mirror Universe

岡山に住むようになって初めて雪が降った。


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乱雑さのことを、ここのところ、ずっと考えている。
最近の、僕の課題だ。
緻密なコントロールは不可能なだけれど、
全体としてあるべきところへ物質とエネルギーを分配する。
たぶん、雪は関係無い。


いつもの公園には雪がほとんど融けたタイミングで行った。
犬は雪も好きではなかった。
彼は、彼の毛を湿らせる全てのものが、嫌いだ。基本的に。


ま、そんだけ。
おしまい。

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