頭蓋骨から恥骨へ向けて

写真を撮ったこと、考えたことの記録

2018年10月1日のゲンロン7巻頭言

 

文章がうまい人、歌がうまい人、話がうまい人、というのがあるような気がしていて、歌と文章の間に話があるんじゃないかと思ったりしている。僕はどちらかというと歌の人で、文章からは遠い。なんというか、文章の構造がぱっと見えない。明らかに直感的に構造がパッと見えてるな、この人、という人がいて、才能だと思うし、尊敬する。難しくて硬い文章も好きだけど、あまりにもハードで分からなさ過ぎると飽きが先にきてしまう。昨日、寝る前にゲンロン7を読んでいたけれど、東浩紀さんの巻頭言はポップで、でも端正で分からないところを分からせようとする調理の具合が素晴らしいと思った。僕は音楽でもポップじゃないと聴けないたちなんだな、っていうのも思い出した。

 

戦後の病 。幽霊の視覚 。受信する立場 。そして距離の回復 。それぞれ関係がないように見えるかもしれないが 、ぼくのなかでは密接につながっている 。批評とは 、現実と言葉とがぴったり重なりあうことができない 、その障害あるいは不能性への鋭敏さで定義づけられる行為である 。だから 、批評とはなにかをぴったり言葉にすることも 、またその定義上絶対にできない。 (ゲンロン7巻頭言/東浩紀)

 

ここの構造の良さというか、単語のくっつけ方とばらしかたの配置で何か分からないことについて描くというのが、音的にもキャッチーで心地よくて、うなってしまった。これは批評を写真とかに置き換えても、何か分からないことについて、我々の心を動かし、分かることを助けてくれる、かもしれないし、しかし、そのような構造的、音的な心地よさに騙されてしまうのが歌の人なのかもしれない。

 

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『認識の病 。幽霊の視覚 。撮影する立場 。そして距離の回復 。それぞれ関係がないように見えるかもしれないが 、ぼくのなかでは密接につながっている 。写真とは 、現実と表現とがぴったり重なりあうことができない 、その障害あるいは不能性への鋭敏さで定義づけられる行為である 。だから 、写真とはなにかをぴったり言葉にすることも 、またその定義上絶対にできない。』