頭蓋骨から恥骨へ向けて

写真を撮ったこと、考えたことの記録

2019年2月5日の三十六歳

最近はフィルムで写真を撮っている。LeicaM3の使い方にも慣れてきたのでフィルムを安価なFUJICOLOR業務用100からお高めのPORTRA160に変えてみて、好きな色味に近づいていて満足度が高い。

 

 

そのようにして撮影している対象のひとつが、近所に堆積しているゴミと資材の中間のようなモノたちだ。うちの周囲は工業地帯なので工場やそれを経営する人の家があったりするのだけれど、彼らはとにかく、物を捨てない。庭や敷地に「いつか使おうと思って置いている」であろう朽ちた資材がいたるところに夥しく積まれている。僕は生まれ育ったところも工業地帯で、零細工場がある地域なのだが、そこではこのようなことは無かった。土地が無いから、そういった選択肢も生まれなかったのだろうと推察される。

 

 

今日で三十六歳になった僕は、散歩をすると出会う、朽ちた資材の山々にシンパシーを感じてしまう。いつか使おうと思って置いていた才能や、可能性の成れの果てが、この山で、この僕で、そうしていつか本当に誰がみても正真正銘のゴミとなって、邪魔者として綺麗に片付けられてしまうんだろう。

 

 

人間存在に起因したゴミのような生に切なくなると同時に、僕はもうひとつ、普遍的な力の存在を重ね合わせて観ている。あるものがうず高く積まれたとき、積まれたものは崩れ始め、やがて崩れをもたらす力と、そのものが留まろうとする力が釣り合い、山の形となって保持される。工事現場に積まれた砂山も富士山も似たような形をしているのは、そういった普遍的な力の相互作用の表れである。砂もトウモロコシの粒もゴミも資材も死体もそれぞれがほんの少し相互作用のバランスがとれる位置が異なるというだけで、結局は山を形作る。

 

 

山の青々とした美しさみたいなものもあるのだろうけれど、僕はそうしたテクスチャを無視して何かひとつのものの構造を見出そうとしてしまう人の特性を、また、そうした「ひとつのもの」そのものをじっと見つめてしまう。

 

 

砂山がある。山の形状は、砂粒の性質とそれが置かれた星の重力加速度によって規定される。地面に積まれた砂が崩れ、安定を獲得したとき、総体として完成する山。その山が地面と為す角度を安息角という。すべてのものは積まれると山と化す。そこには安息角がある。たとえそれが死体の山であったとしても。

 

 

「世界を貫くたったひとつ」があるとして、そうしたものが現に表象するとするならば、それはどんな形をしうるのだろう。それは美麗な富士山と無意味なこのゴミの山と残虐な死体の山を区別しないはずだ。きっとすべての山々を等しく同じ地平に並べるに違いない。たとえば、安息角のように。

 

 

普遍的なもの、普遍的であるということについて、ずっと考えている。