頭蓋骨から恥骨へ向けて

写真を撮ったこと、考えたことの記録

2015年10月18日の港への道程

GXRはもはやバッファが小さくて撮影のテンポが悪い。
だけど、真四角のRAWデータが残せるので、ちょっと手放し難い。
変な機能だけど、愛おしい。


自分の中のハイライト祭りはもうちょっとだけ続きそう。


ところで、写真というのは同じカメラで同じ条件で撮ると同じ写真ができる。
もちろん完全に同じカメラ、同じ条件というは存在しないが、
プロが撮るような同じような写真というのは案外撮れてしまう。たぶん。


西尾維新森博嗣の対談だったと思うが、文章というものはもっと苛烈だ。
どんな文豪が書いた名文であろうが、なんの訓練もなく同一のものが、
キーボードを叩くだけで誰にでも作れてしまう。
「月が綺麗ですね」というのは小学生にだって模倣可能なのだ。
やれやれ。(村上春樹


ここに「量の無い質は無い」という言葉のもう一つの本質を感じる。
……ことがあるのだけれど、全くの錯覚だろう。
まあでも少し聞いて欲しい。


ある一文を完全に模倣することは、その完全性故に、価値を持たない。
僕が模写した夢野久作を読むことと、青空文庫夢野久作を読むことに差異は無い。
単に、夢野久作を読んでいるというだけの話である。


プロが撮ったうまいらしい写真を撮ることも、おそらく同様に、意味が無い。
プロが撮ったうまいらしい写真をコピー機にかけることとまったく同じなのだ。


しかし、残念ながら、おそらくほぼ全ての文章はすでに書かれてしまっている。
しかし、残念ながら、おそらくほぼ全ての写真はすでに撮られてしまっている。
容易に創作可能な創作物はもうすでに終わりに終わりきっているのだと思う。


ここで、ようやく、量が意味を持つ。
撮られてしまった全て、書かれてしまった全てを模倣するかのように、
僕たちは実はすでに誰かが生きたように生きている。
宇宙を構成する要素は本当に少ないらしい。
僕たちを構成する要素は圧倒的に、実は少ない。
そのすでに終わってしまったものを乗り越える唯一の方法が、量だ。
数種の粒子が圧倒的な数で圧倒的な種類の物質を生命を生み出すように、
終わりに終わりを重ね続けて現れる新たなる終わり。
それが、たぶん、新しい写真であり、僕たちの、命だ。