頭蓋骨から恥骨へ向けて

写真を撮ったこと、考えたことの記録

2018年1月1日の頭痛

(おそらく頭痛の訪れと共に)精神年齢が全然上がっていかない辛みが込み上げてきた、などと呟いて妻は布団に伏して泣いていた。何か、大人になるっていうのは、立場の問題で、弱い者を抱えたときに不意に入ってしまうスイッチがあってね、それが入る立場にいけるかどうかは、偶然でね、大人の方が優れているわけじゃないよね、とか、そういう理屈を捏ねるのが得意な俺は、捏ねた理屈を丸めて捩じ込もうかと思ったけど、ほとんどの人間は泣いてるときに胸に何かが入ると窒息してしまう。どれくらい、妻はこの後泣くのだろう。ティッシュを強めに押して涙を拭くと、水分も気持ちのキレもいいものだけれど、摩擦も大きいので何度もやると目の周りの薄い皮膚は傷んでしまう。

 

 

LeicaのM3というカメラがあって、レンジファインダー方式の完成形で、余りにもデキが良いものだから、50年以上経った今でも現役で使われていて、余りにもデキが良いものだから、その後、たくさんは売れなくなって、作っていた会社は何度も潰れかけた、とか。そういう伝説を想い出しながら、今日は、去年生まれた二人の甥っ子頬を撫でた。お年玉もくれてやった。ピン札をどのタイミングで渡すか、みたいな時に、えいっ!と一瞬背筋を伸ばすええカッコをするときだけ、俺は大人だ。みんな大体そんなものだし、俺の会社のおっさんなんて総じて子供のままだ。だいたい人もカメラもM3で、生まれてきた時に全ては決まっていて、デキがいいからって、会社や家庭や人生が続くってわけでは無い。

 

 

 

そこまで俺はさらに理屈を捏ねて、その捏ね尽くしたしょうもない理屈を、完了した2017年の方向に投げた。それで、なるべく何も考えないように、妻の頭痛が治るように祈った。

 

 

 

 

あけましておめでとうございます。