頭蓋骨から恥骨へ向けて

写真を撮ったこと、考えたことの記録

メシのタネは、創英角ポップ体。あるいは小便。

世の中には、創英角ポップ体で書かれた大変デザインセンスの無いチラシが
あふれている、という話が話題になっていた。


そのときに思い出したのがid:heiminさんがよくtwitterでつぶやいている、
「小便器から小便をこぼすやつが許せない」という怒りである。
僕もそれには大変共感し、特に駅や電車内の便器周辺が小便塗れになっていたときに
ある種の義憤、正義感、小便マキチラス族の絶滅に尽力する誓いを立てたくなる。


悪いデザイン、にもこれとよく似た怒りを覚えることがある。
特に、雰囲気の良い公園に桜が咲いていたりする脇に貼られている注意書き。
せっかくの公園も、桜も、なんだか台無しにされてしまったような気持ちで、
創英角ポップ体で注意書きを書く人達への呪詛を吐く。
このやろう、きれいな景色を台無しにしやがって、という気持ちだ。


しかし、その一方で、社会人になってからは全く別の感慨を受けるようになった。
それは「こんなに簡単な問題がまだ解決されずに残っている」ということだ。
つい現代に生きる僕たちは、大変深遠な問題、複雑な課題、重要なテーマを、
解決しなくては食っていけないような、人としてダメなような、
そんな気持ちになることがある。
こぼれた小便はそんな思いを払拭してくれる。


こぼれた小便を拭き取る仕事はおそらく100年前にもあったし、
少なくとも僕が死ぬ前までに無くなることはないだろう。
何かをデザインする仕事も、おそらくそうだ。
(それが創英角ポップ体で書かれた文章の修正であるかは別として)


世の中には小便をこぼす人とデザインを知らない人がいる。
逆に、自分では作れなくても、提示されたデザインの良し悪しが分かる人がいる。
小便にまみれた床が嫌いな人はもっと多いだろう。
僕は、ああ、その落差でまだ人は食っていけるのだな、と思うのだ。
そして、それはとても心強いことだ。
人工知能の発達もセンサーと動力の進化も、
結局はまだそうしたものを満たし切ることない。
まだまだ、先の話なのだ。
小便の床を拭くことで、今日のご飯を獲得できる世界が、
まだ、ここにしばらく残ってくれているのだ。


世の中には悪いデザインをする人達がいる。
小便をこぼして拭かないバカがいる。
だから、そうでない人達がその悪どさの修正でご飯を食べられる。
それが、今の所、世の中の仕組みであり、構造であって、
少なくとも、永遠に汚れないトイレや完璧なデザインが支配する都市で、
高度なアルゴリズムや美学についての議論を処理できるような人間だけが、
ご飯を食べられる世界よりも、幾分まともで、マシかなあ、などと思うのだ。

2015年10月25日の竹原町並み保存地区

気分転換に日帰り旅行だ!
と、息巻いてみたものの、メインカメラGXRの電池入れ忘れに、現地で気付く。
それでひとしきり落ち込む。
気を取り直して旅行を楽しんで帰ってきたものの、
サブカメラDP1xの設定がjpeg
もうだめだ、もうだめだ、という涙の日曜日。
ああ、ああ。


竹原町並み保存地区は観光客の量もそれほど多くなく、
見て回るだけだとそれほど時間もかからず、
日帰り旅行としては最適ではあった。


何泊かするのだったら、西条とか呉とかも視野にはいるのかな。



写真の量が多いが、記念撮影のような、そうでもないような……。
まあ、別に旅行記を書きたいというわけでもない。

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2015年10月18日の港への道程

GXRはもはやバッファが小さくて撮影のテンポが悪い。
だけど、真四角のRAWデータが残せるので、ちょっと手放し難い。
変な機能だけど、愛おしい。


自分の中のハイライト祭りはもうちょっとだけ続きそう。


ところで、写真というのは同じカメラで同じ条件で撮ると同じ写真ができる。
もちろん完全に同じカメラ、同じ条件というは存在しないが、
プロが撮るような同じような写真というのは案外撮れてしまう。たぶん。


西尾維新森博嗣の対談だったと思うが、文章というものはもっと苛烈だ。
どんな文豪が書いた名文であろうが、なんの訓練もなく同一のものが、
キーボードを叩くだけで誰にでも作れてしまう。
「月が綺麗ですね」というのは小学生にだって模倣可能なのだ。
やれやれ。(村上春樹


ここに「量の無い質は無い」という言葉のもう一つの本質を感じる。
……ことがあるのだけれど、全くの錯覚だろう。
まあでも少し聞いて欲しい。


ある一文を完全に模倣することは、その完全性故に、価値を持たない。
僕が模写した夢野久作を読むことと、青空文庫夢野久作を読むことに差異は無い。
単に、夢野久作を読んでいるというだけの話である。


プロが撮ったうまいらしい写真を撮ることも、おそらく同様に、意味が無い。
プロが撮ったうまいらしい写真をコピー機にかけることとまったく同じなのだ。


しかし、残念ながら、おそらくほぼ全ての文章はすでに書かれてしまっている。
しかし、残念ながら、おそらくほぼ全ての写真はすでに撮られてしまっている。
容易に創作可能な創作物はもうすでに終わりに終わりきっているのだと思う。


ここで、ようやく、量が意味を持つ。
撮られてしまった全て、書かれてしまった全てを模倣するかのように、
僕たちは実はすでに誰かが生きたように生きている。
宇宙を構成する要素は本当に少ないらしい。
僕たちを構成する要素は圧倒的に、実は少ない。
そのすでに終わってしまったものを乗り越える唯一の方法が、量だ。
数種の粒子が圧倒的な数で圧倒的な種類の物質を生命を生み出すように、
終わりに終わりを重ね続けて現れる新たなる終わり。
それが、たぶん、新しい写真であり、僕たちの、命だ。




























































































2015年10月17日の陽光

ずっとカメラと写真のことを考えているのだけれど、
撮影枚数は少ない。
丘サーファーみたいだ。



2015年10月17日の陽光は素晴らしく、
重たいシャッターを軽くする魅力があった。



カメラはGXRにNOKTON35mmf1.4とDP1xを使用。
とにかく、光の量は現像で追い込めばなんとかなるからと言い聞かせつつ、
動き続ける太陽とその写像としてのレンズのフレアを追いかけた。
部屋で寝転がりながら光を捉える作業は最高だ。



あとは、夜景で砂山を撮るという構想があるのだけれど、
冬にならないうちに実現させてしまいたい。



ああ、部屋を借りるとき、どうしても陽当たりだけは譲れないと、
つまは言った。



なるほど、たしかに、そのとおりですね。
いやいや、本当に。


































2015年の春に咲いた桜

毎年なんらかの焦燥感、期間限定、撮らねば、という、
花鳥風月を愛でる気持ちとは無関係の動機で桜を撮りに出かけてしまう。
半ば強制的に身体疲労を押して行くこともあるので、
すこぶる機嫌が悪いこともあるにも関わらずである。
そうしたものが何の欲望であるのか、未だに掴めずにいるが、
特に知りたいとも実は思わない。




DP1xの封印を解くなどする

つま用に買ったシグマDP1xというカメラ。
数年前のチェコ旅行以外ほとんど使っていない。
あまりにも遅く、低感度でしか使い物にならないからだ。


その日は強烈な光が降り注いだ日だったから、
写真の角度にまで陽が傾くのを待ち、DP1xの封印を解くなどした。



アスファルトの断面が見えているようだと感じた。



広角はとにかくパースがつくのが楽しかった。




布に光が当たっているだけの写真集を作りたいくらいその光景が好きだ。




こんなに廃屋らしい廃屋には中々会えない。




魔法の時間は自分の影も映りこみやすいけど、まあいいかと思った。




汚い袋、だけど、清く正しく劣化していっていると感じた。




夕方の青空というだけで泣けてくることがある。
しかし、この日は別に切なくはなかった。




力の安定のために物質は集まり天体を作る。
燃える天体から生じたエネルギーもまた安定的な経路を通る。
その結果、天体は丸く、放射される光もまた総体として球形となる。
光を食う生き物はまるでそれを模倣するかのように、円を描く。
それが最も効率的であり、効率であることが彼の生を安定させる。
全てが安定になった宇宙には、おそらく、生は無いのだけれど。




白黒にしてもクリアな絵を吐く良いカメラであった。
キレキレだから見ていて疲れる画像では、あるけれど。